親心のシューマン

前から聞いてたしよく知ってたような曲が、ある日突然、ある場所ある状況で聞いたとき、わーっと全身にしみ込んでくるようなこと、ない?
シューマンはもちろん嫌いじゃなかったんだけど、はるちんのように
「自分の一番核のようなところで、光となったり翳となったり、炎となったり氷となったり、あたたかくなったりさみしくなったりしている」
ってほど思い入れがある作曲家ってわけでもなかったの。ワルトラウト・マイヤーの歌う「詩人の恋」が、どうにも身にしみて、ある時期よく聞いた、ってことが一度あったぐらいかな。
それが、今日の午後、リールはよく晴れた日曜日で、特にこれといった用事もなく、お昼ごはんをおいしく食べてああ、眠いなあと思ってたとき、(しかも食事中なぜかアントニオ猪木の話になって、それ以来頭の中を「闘魂」が流れて仕方がなかったから、それを打ち消すために)ふとかけた、クララ・ハスキルの「子供の情景」に、、、

CLARA HASKIL/ RECITAL DE BESANCON 1956

CLARA HASKIL/ RECITAL DE BESANCON 1956

見事にやられてしまったのでした。*1
このCD、とくにこのシューマンは前から好きでよく聞いてて、愛聴版だったから高砂からもってきたものなのです。なのになぜ!かくも最初の音から魂を踏みしめるように、今新たに心に触れてくるものかな。音の姿がそのまま光の姿、魂の姿のように、愛としか名付けようのないもの(照)を表しているかのようで・・・なんていうか、少し新たにこの曲がわかったのです。ああ、これは「子供の情景」を見つめ、見ることで我が子の生そのものを胸に宿している、親の愛でもあるのだと。親に見守られて遊ぶ子供、見守られているからこその安心感、我が子を眺めつつ一心同体となって「子供の生」を追体験している親、その親・子の双方が産んだ光景なのだと。でもってもしかしたらそれをさらに客観的に見守りつつ理想化して妻・子の両方に深く思いを馳せている父親の視点、なのかもしれないな、とふっと思ったのです。
(実際のところ、シューマンがこの曲を書いたのは、クララとの結婚前だそうです。以下、1838年3月7日 シューマンがクララに宛てた手紙。)

「貴女は、前に私のことを時々子供みたいなところがあると言いましたが、その言葉が私の胸に残っていて、それがちょうど翼をあたえられたかのように思えて、30曲ほどの小さな曲を書きました。それから12曲ばかりを選びそれに「子供の情景」という題をつけました…」

私はわりかしリアリストなので、ロマン派の音楽に深入りすることは滅多にないのだけど、んー、なんかたまにロマン派が身にしみると、いいねえ。柔らかいものに包まれてる感じで。

そうそう、「子供の情景」って「キンダガートン」って呼ぶっけ?・・なんてことをgoogleで調べてたら、面白いものを発見したよ。
http://www.keio-miyama.com/seminar/r2000/0519syh.html
おうおう。研究してるでねーの。分析すると確かに面白そう。

ところで次回のわさびははるちん的にはわりかし「ロマン」と「現実」の境目で死にそうな曲が続くんでないの?シューベルトの五重奏も、あれも昇華のぎりぎりの高みにあるような感じだし。Tざわさんの「ぎりぎり感」好きなので楽しみ。「え〜そんなことないでしゅ〜」とか言いつつ結構シリアスでハードボイルドな音も出せるからなあ彼女は。モーツアルトはオードブルだね。狩りからシャコンヌに移るとき、照明落としたりすれば?(笑)
第五回わさびの「理想」と「現実」いかなるものか。録音ぜひ聞かせてください。(fd)

*1:ちなみにこの録音、ブザンソンでのライブ録音で、ミスタッチとかピアノの調律の悪さが気になる人にはお勧めしません。