ベートーヴェン 交響曲第9番

ひねくれものの私は、年末近くなると猫も杓子も第9騒ぎに
なるのが正直「ムカツいて」いる。4楽章の合唱部分に、年賀状だ、
歯ブラシだ、カレーライスだ
と乗せるのはヤメテくれ〜と、流れるたびに
TVのチャンネルを変えている。


楽員の餅代稼ぎのため…といわれている年末の第9。それ自体は
構わないし、在京の多数あるオケも、それぞれ指揮者やソリスト陣に
工夫をこらして、「うちの第9」を売っていて、普段演奏会には
いかないけれど「第9」だけは聴きますって人もいるというから、
それはそれでもう日本の文化?(風物詩の方が適格?)として定着して
よいことかもしれない。


たとえば、1楽章の冒頭は起きてて、途中で意識がなくなって、
2楽章の冒頭でびっくりして、そういえば年末の
ニュース特集に使われてたかもと思い出して、
これまた3楽章で心地よくなって眠くなって、
4楽章、あ〜ようやく知ってるとこかと思って
起きたのに何だか最初違うし…あ〜やっぱりクラシックって肩凝るなぁ
と深々と溜息をついて来た事ちょっと後悔し始めたら、チェロから
なんだか知ってるメロディがようやく聴こえてきて、大合唱に圧倒されて
おぉ、やっぱすげ〜じゃん、やっぱ生は違うよな〜って思う客が大多数
だったとしても、「クラシック」世界の興行的には大成功なのよね。


でも、実際、もっともっと「得難い」曲である気がします。
d-mollから始まりD-durに終わるまでの壮大なドラマ。
混沌とぎりぎり紙一重の対位法を駆使された書法。
頭おかしくなりそうなくらい複雑で緻密で、万物の因果を
書き尽くしたかのようで、第3楽章で捧げられる平和と安息
への祈り、それを超えた所に奏でられる
あの旋律が、どれだけ人々の心に「救済」を齎すか…。
再び「生」を与え得るか…。
「第9」に纏わるエピソードとか云々じゃなくて、音楽そのもの
がもつ「言霊」ならぬ「音霊」を、もっともっとビンビン、ジンジン
感じながら「聴く」んじゃなくて「受け止めたい」曲だなぁと
思うんだけど。。。


これだけ演奏機会がまとまって多くなると、
なかなかそういう「魂」の充実した第9を聴けることは少なくなったと
思うし、やっぱり聴く側にもコンディションというものがあって、
その音楽に宿るエネルギーを自分の中で実らすことができる時と、
できない時があるなぁと思う。(全ての音楽についてそうだけれど)


作曲家の産みの苦しみを経て世に放たれて、それを慈しみ
大事に弾いてきた演奏者やその演奏機会を作ってきた人々や
その曲をじっくり受け止めて歴史を経て育んで来た聴衆たちによる
霊的な産物を、安易に替え歌にすることは、クラシック音楽への
「親しみ」とはちょっと違うと思う。。。


もちろん「聴きなれる」ことが、一番の愛され方だと思うけれど
どうして愛されるのか、ここまで愛されてきたわけにはどんな
背景があるのか、演奏者や、音楽に携わる人間は、ベートーヴェン
メッセンジャーとして、この得がたい曲の魅力を、「あきらめず」に
多角的にとらえて、真摯に人へ伝えていかなくてはならないと思う。


一年の汚れを落とすために大掃除をするように、
人々がこの一年の間の葛藤や混沌の中から、平和を祈り、
再び新しい一年に向けて、希望や生を第9から抱くということが
「そもそも」出来ているのなら、能書きや薀蓄は必要なく
きっと、それが「ほんとのこと」のような気がするけどね。。。(HAL)